組合の歴史

前史

 プリンス自動車工業の前身は、戦前の中島飛行機(株)と立川飛行機(株)という2つの軍需工場でした。戦後、中島飛行機(株)は財閥解体によって分割され、そのうち荻窪工場と浜松工場は富士精密工業(株)としてミシン、映写機、小型発動機を生産しました。立川飛行機(株)は立川工場が米軍に接収されたために府中で電気自動車の生産に着手、その後三鷹に移ってエンジン車に切りかえ、富士精密製のエンジンを搭載するようになりました。両社は1954年に合併して当初は富士精密を社名としましたが、1961年にプリンス自動車工業(株)に改めました。
 三鷹の組合は1946年2月15日に結成され、1948年には全自(全日本自動車産業労働組合)に参加しました。1953年の日産争議を経て全自が解散した後は、一時は中立組織でしたが、1960年5月に全国金属労働組合に加入しました。
 荻窪の組合は1946年1月22に結成され、直後に全国金属労働組合(当時は関東金属)に加入しました。会社が合併した当初は荻窪と三鷹は連合会をつくっていましたが、1962年に村山工場が稼動したのを機に組織を統一し、名称を全金プリンス自動車工業支部としました。
 日産との合併が発表された1965年当時、支部は荻窪、三鷹、村山の3分会からなり、組合員は7,500名でした。

第1期(1965〜1970)突然の合併発表

 1965年5月31日、新聞はいっせいに日産自動車(株)とプリンス自動車工業(株)の合併を報じました。
日産とプリンスは、昨日までシェア競争でしのぎをけずって争っていた間柄、それが突然の合併発表でした。当時、米ビッグスリーから日本の自動車市場の輸入自由化圧力が強く、輸入自由化後も米ビッグスリーに対抗できる企業力をつけるために、自動車各杜の整理統合が必要であるとの「国家的見地」にたった議論が政府、財界から出されていました。その第一弾が日産とプリンスの合併だったのです

 この合併は、労働運動の面でも大きな注目を集めました。プリンスの組合は総評左派の全国金属の中核。一方、日産の組合は同盟所属で、戦後労働運動史に特筆される1953年の全自動車日産分会の百日争議の中から会社派第二組合として発足し、最終的には第一組合を吸収した「労使協調」の代表的組合であり、メーデーには日の丸の旗をかかげて行進するという異常な体質をもっていました。

目産派による組合破壊攻撃

 プリンスの組合は、合併による労働条件の切り下げに反対し、労働者の生活を守るための要求づくりをすすめました。しかしこの間、合併の遂行にプリンスの組合の路線は有害と考える日産資本は、日産労組を使ってプリンスの組合を転覆させるための準備を着々と進めていました。第二組合として発足した日産労組は、会社の庇護のもとに日産の系列企業の労働組合を次々と傘下におさめ、「自動車労連」という名称の企業連組合を組織し、その頂点に塩路一郎会長が君臨していました。

 氏は、企業経営者(当時の川又克二社長)の全面的なバックアップのもとに、プリンスの組合執行部の取り込みに乗り出しました。1965年には、プリンス中央執行委員6名を除く労組幹部の取り込みがほぼ完了していました。こうして日産派は、組合丸抱えの全国金属脱退の策動を公然と開始しました。手はじめに中執11名全員の不信任動議を代議員大会で可決し、続いて規約違反の中執代行を選任し、そのもとで全金脱退を強行しました。

全金プリンス組織確立−相次ぐ勝利判決・命令

 組合には、全国金属のたたかう伝統を守ろうとする6名の中執を中心に、多くの若者が結集していました。1966年4月10日に開催された組織強化確立臨時全員大会には、152名が結集しました。
会社は組合の存在を否認し、組合費のチェックオフ分を第二組合に渡し、団交を拒否、さらに職制を動員して組合切り崩しの不当労働行為を続けました。しかし、組合の反撃で会社の行為は都労委、中労委の場で次々と不当労働行為の認定を受けるに至りました。

 会社は全金の存在を認め、団体交渉開催の瀬戸際に追いつめられました。ここで、川又−塩路体制がとったのが、団体交渉の相手たる全金の組合員を職場から一掃しようともくろんだ「集団暴力事件」でした。


日本のうたごえ祭典(1966年)

集団暴カ事件、そして「合理化」の強行

 1967年年頭から、日産の各工場は「暴力工場」と化しました。昼休みおよび定時後、第二組合幹部を先頭に数十名の労働者が組合員を取り囲み、口々に罵声を浴びせ、足を踏む、蹴飛ばす、体当りをする、ひどいところでは押し倒すなど、暴力のかぎりをつくしました。組合は直ちに反撃を開始しました。青年行動隊は都内に訴えに散りました。暴力攻撃覚悟で毎朝就労する組合員を励ますために、中央合唱団をはじめとする門前支援者の歌声が連日組織されました。警察への告訴、人権擁護委員会への提訴が検討されました。総評・全金も人的、経済的支援を惜しみませんでした。

 この暴力攻撃で旧プリンスの職場を恐怖の底におとしいれた後、日産型の「合理化」が導入されました。戦後のプリンスの労働組合が営々として築き上げてきた労働条件が、一挙に日産の低い条件に切り下げられたのです。
まず、深夜二交替勤務が生産ラインに導入されました。旧プリンスでは、朝7時から夜10時半までの工場稼働時間帯を早番と遅番に分けて勤務する交替制だったのに対し、日産型交替制は遅番が朝6時に終る完全な深夜勤務でした。

 続いて賃金体系が日産型に統合されました。これにより、ほとんどの労働者が賃金昇給の足踏みを経験することになりました。41歳の女性の場合、プリンス当時の賃金が約4万円、これが日産の賃金体系では約3万円となり、差額の1万円は「調整手当」の名目で一応保障されましたが、翌年以降の賃上げ額から相殺される仕組みとなっていました。


日産集団暴力抗議集会(1967年)

第2期(1971〜1976) あいつぐ勝利判決・和解


中央メーデーで行進する組合員

不当配転事件の勝利和解

 合併直後の1966年8月、全金に残留した間接職場の組合員のうちの11名に対して、村山工場の車両整備課等に閉じ込めることを目的とした不当配転命令が出されました。これは間接職場の主要な活動家を会社の中枢部門から排除するとともに、全金に残る者にはまともな仕事を与えないという「見せしめ」攻撃でした。
組合は直ちに都労委に救済申立てを行い、1971年に勝利命令を得ました。会社は引き延ばしをはかって中労委へ再審査申し立て。しかし、会社の配転理由は明らかなこじつけであり、争っても勝ち目はありませんでした。例えば、スカイラインのボデー設計を担当していた大卒技術者に対する配転理由は、「長期在庫車両のバッテリの放電状況を統計的にチェックせよ」というものであり、技術的には「無意味」以外の何物でもありませんでした。

 1971年末、中労委の場で和解が成立し、当時在籍していた6名(5名は退職)は原職に復帰し、解決金300万円を勝ち取りました。

暴カ事件の勝利和解

 1967年初頭に始まった暴力事件のうち、組合員を負傷させた特に悪質な暴力分子52名とこれを容認した会社を相手どって、組合は損害賠償の支払いを求める民事訴訟を起こしました。
法廷が開かれるたびに、被告である暴力分子らが多数傍聴に動員されました。その法廷で、原告である被害者が、暴力を受け負傷するさまをありのままに立証しました。暴力分子は本来の確信犯ではなく、会社、組合の扇動に乗った者がほとんどであり、さすがに自分達の悪行を聞くに耐える神経を持ち合わせていませんでした。

 原告側証人調べの途中で提起された裁判所からの和解提案に会社側はとびつき、原告側請求額の全額約340万円を支払って和解をしました。

賃金差別事件の和解

 1970年、組合は賃金差別の解消をめざして都労委に救済申し立てを行いました。
当時の日産では、賃上げが妥結しても自分がいくら昇給するか皆目見当がつかない「くらやみ」賃金でした。組合員の賃上げはいちように低く、従業員平均賃上げ額に到達する組合員は皆無でした。都労委での審問のなかで、日産には事務、技術および技能の3つの職掌なるものがあり、職級と称する賃金、仕事の格付けがあることなど、きわめて初歩的な賃金査定上の事項がはじめて明らかにされました。
 1974年、都労委の強力な勧告により、第1次の賃金和解が成立しました。和解内容は1人平均1万2千円の是正、解決金2千万円というものでした。しかし、この水準は日産労組の同期生の最低ラインまでとりあえず引き上げるというものであり、同期生平均よりも約1割下回るものでした。
翌年、この差が拡大したので、都労委に斡旋を申請し、第2次の賃金和解が成立しました。

           芦が久保果樹公園村でのレクリエーション

組合活動協定

 1967年の団交再開後も、組合の団交メンバーの出席時間は私用外出または休暇扱いであり、また、就業時間内の組合活動はいっさい認められませんでした。都労委からも勧告を受け、会社も協定締結を認めることになりました。1973年に締結された協定内容は、団交については半額会社負担、時間内活動は年間300時間までは半額会社負担、それを越える分は全額組合負担というものであり、裁判傍聴、弁護士打合せ、他組合支援、諸会議などの目的に特段の制限はなく、しかも年間使用時間数にも制限がなかったため、就業時間内の活動の面で大幅な自由を認めるものでした。


第3期(1977〜1983) 石原の「信賞必罰」路線

第3次賃金和解の決裂

 1974年と75年の2次にわたる賃金和解から、会社はその後の組合員の賃金を日産労組同期生平均比九割前後に固定する路線をとりだしました。

 組合は「組合所属の如何によって差別しない」という和解の精神からいって100%に近づけるのは当然との立場で、第3次の賃金差別是正の救済申し立てを行いました。この事件は斡旋に入り、2年間交渉が継続しましたが、77年に至り決裂しました。
 会社が決裂させたのですが、その理由は「組合が第1次、2次の和解で格差を認めたので、100%に是正する義務を会社は負わない」というものでした。

 77年6月に社長に就任した石原氏は、社員に対して「信賞必罰」を前面に押し出しました。「30%は一流の条件」のスローガンのもとに、低落の一途をたどるシェアの回復のために、労働者に対して「企業への忠誠心」を要求しつづけました。この方針を受けた日産の労務担当は、組合に対する差別をいっそう強化するようになりました。

組合事務所・掲示板

 1966年3月に第二組合が出来るや、会社は従来組合が使用していた組合事務所・掲示板を彼らに貸与し、組合には貸与を拒否するようになりました。
 組合は都労委に提訴し、1976年に勝利命令を得ました。しかし、会社は都労委を相手どり、命令取り消しを求める行政訴訟を起こしました。行政訴訟を継続する一方、会社は組合と自主交渉を行い、貸与するポーズをとり続けました。ところが1978年に東京地裁で行政訴訟判決が出され、会社が敗訴するや、会社は東京高裁に控訴する一方、自主交渉を打ち切ってきました。

 自主交渉のポーズが、裁判官の印象を良くするためのものにすぎないことが明らかになりました。結局この事件は、1987年に最高裁判所で会社の敗訴が確定するまで続きました。
 しかも、最高裁判決後も、事務所・掲示板の設置場所や大きさに非常識な制約を設けて交渉を引き延ばし、さらに組合のJMIU加入を契機に全金日産支部との同一性に難くせをつけて、貸与拒否を続けました。

機械工不当配転事件

 1981年、会社は村山工場内に大衆車マーチの製造工場を建設し、村山工場にあった機械工場を栃木工場に移転しました。そして500名を越える機械工を、マーチの生産ラインに投入しました。
 機械工の経験と技能を無視した会社の「合理化」に抗し、7名の労働者が立ち上がりました。1985年、会社の人事権の濫用を理由に横浜地裁で勝利判決が出されましたが、東京高裁および最高裁は、会社の裁量権を認めて逆転判決を下しました。

 工場内および工場間の応援も頻発しました。栃木工場(セドリック、パルサー)、村山工場(スカイライン、ローレル、マーチ)、座間工場(サニー)、追浜工場(ブルーバード)、九州工場(シルビア)などの間で、生産車種の売れ行きに応じて労働者を将棋の駒のように他工場の応援に出すことが、日常化しました。

              横浜地裁で勝利判決(1986年)

厚木除名解雇・追浜暴カ事件

 これらは私たちの組合に対する攻撃ではありませんが、この時期の会社の労務政策を物語っています。つまり、全金の組合が組織された工場では暴力は陰をひそめて長期封じ込め政策をとる一方で、他工場および直系企業の活動家に対しては暴力的に企業からの排除を企ててきました。

 日産直系の部品メーカーである厚木自動車部品(株)(後のアツギユニシア)の労働者たちは、労働条件の向上、労働組合の民主化をめざして活動していましたが、同社は活動家に対する差別攻撃を始めました。1975年神奈川地労委提訴、1979年中労委で勝利和解。しかし、自動車労連・日産労組幹部は会社の姿勢を非難し、活動家七名を組合から除名し、ユニオンショップ協定を盾に会社に解雇を要求し、1979年10月に7名が解雇され、有名な厚木自動車部品解雇争議が発生しました。
 7名の争議団の英雄的なたたかいと日産厚木争議支援共闘会議、そして全金日産と厚木の闘争を共通のたたかいとして支援する日産闘争支援連絡会のたたかいにより、1987年10月に横浜地裁で勝利判決が下されました。会社は控訴を断念し、1988年に7名全員が職場復帰しましたが、最終的に職場復帰するまで、足掛け10年の期間を要しました。

 追浜工場では、日産労組の企業ぐるみ選挙、厚木解雇に反対した八木氏に対する集団暴力取囲み事件が発生。日産の体質を如実に示すものでした。

          除名大会前の厚木自動車部品の7人(1979年)

第4期(1984〜1991) 全面解決へ支援広がる

全面解決闘争に立ちあがる

            分裂20周年「10・24連帯の夕べ」

 1980年の都労委和解不調後、組合は日産争議の全面解決に向けての討議を開始しました。男女差別定年をたたかった中本さんの争議や日本航空をはじめとする多くの争議組合のたたかいの経験を取り入れ、1983年に「労使関係正常化・全面解決闘争」に立ち上がりました。

 全面解決闘争の柱は、(1)日産を社会的に包囲するたたかい、(2)法廷闘争に勝利するたたかい、(3)職場闘争の強化の三本です。
 組合の名称も、名実ともに日産の労働者を代表する組織として「全金プリンス自動車工業支部」から「全金日産自動車支部」に改めました。

日産厚木争議団との共同行動

 1979年の厚木争議発生以後、組合は厚木支援共闘会議に代表幹事を送って、共通のたたかいを追求しました。一方、日産本社のある中央区労協では、中本争議支援運動の盛り上がりの中から日産のすべての争議に対する支援、そして新たに発生した厚木争議と追浜の八木氏に対する暴力事件に対するたたかいの支援を決定しました。

 1981年の「日産に呼びもどそう青い鳥を」(東京都勤労福祉会館)を皮切りに、1984年には「5・18日産文化の夕べ」(中央会館)と集会が積み重ねられ、1985年にはさらに発展させて首都圏規模の日産闘争支援連絡会が結成され「5・17日産文化の夕べ」が読売ホールで開催されました。1986年5月15日には、「日産闘争支援・全国総行動」が展開されました。これらの行動が厚木争議の解決に大きく寄与することになりました。

日産の業績悪化

 この時期、日産の国内販売シェアは低落の一途をたどりました。石原社長から久米社長への移行時期、会社は深刻な危機に直面していました。
 トヨタとの格差は開く一方。販売力の差だけでは説明できない病巣が社内にはびこっていたと言えます。経営陣は、その責任をこれまで育成してきた自動車労連塩路会長に押しかぶせました。子飼いの下級職制機構を使って塩路追い出しに成功した会社は、組合の権力機構を徹底的に崩していきました。
 さらに、積極的な経営改革も行いました。その結果、Be-1から始まるユーザーにアピールする一連の車の開発に成功しました。

 もうひとつ重視したのは、企業イメージの向上です。「企業ぐるみ選挙」や「ユニオンショップ協定解雇(厚木争議)」など、明らかに企業イメージの低下と労働者のモラールの低下につながる労務政策の転換をはかってきました。

 しかし、全金日産に対する長期封じ込め政策はいささかの変更も加えず、残業差別事件、組合事務所・掲示板事件の最高裁判決にも従わず、ついには組合の全労連・JMIU加入を契機に、「組合否認」の暴挙をとるに至りました。

全労連・JMIU敵視の組合否認・団交拒否

 1989年8月、組合は全日本金属情報機器労働組合(JMIU)に加入しました。
会社はこれを契機に、「組合の同一性に疑問がある」、「交渉妥結権はJMIU本部にあるのか、支部にあるのか」などと難くせをつけ、団交を拒否し、最高裁で確定ずみの組合事務所・掲示板の貸与を拒否してきました。全労連の組合が組織されている大企業は数少く、日産経営陣は組合との交渉を嫌悪していました。

 しかし、労組法無視の会社の暴挙を糾弾する運動の発展も迅速でした。89年12月にはJMIU日産闘争支援共闘会議が結成され、日産を包囲する総反撃体制が確立されました。

 90年3月、石播闘争支援連とともに「石播・日産をはじめ全ての争議の勝利をめざす3・11大集会」を1万人の労働者・市民を集めて代々木公園で成功させ、10月には「日産の差別をなくす10・19全国総行動」を成功させました。90年1月、組合同一性否認を口実とした団交拒否を、同年5月には組合自体を否認した団交拒否を、いずれも都労委に提訴し、ついに同年12月から団交拒否事件をはじめ、すべての係争事件の解決をめざす交渉が、都労委の場で進められるに至りました。



第5期(1993〜2003) 争議全面解決とその後のリストラ「合理化」とのたたかい

争議全面解決

 1993年1月8日、組合と会社は全ての係争事件についての和解協定に調印しました。資本側の牙城といわれた八社懇(鉄鋼、造船、電機、自動車のトップ2社)のなかに、労使協調的なビッグユニオンではなく、少数ながらも資本と対決し、労働者の権利を守ってたたかう労働組合の存在を名実ともに認めさせたたたかいの成果は、多くの労働者を勇気づけるものでした。和解で獲得した成果は以下のとおりです:

1. 組合否認、組合間差別の是正
団体交渉、地区事務折衝のルールの確立、就業時間内の組合活動協定の締結、組合事務所・掲示板の貸与。

2. 組合員に対する差別是正、処分撤回

賃金、仕事ランク、退職金ポイントの是正、職掌差別の是正、人間関係差別・村八分の是正、懲戒処分の是正

3. 専従者の職場復帰条件の改善

4. 解決金の支払い(非公表)

 その後のリストラ「合理化」反対のたたかいのなかで、上記の和解で獲得した権利は大きな武器となりました。
組合事務所は和解直後は村山と荻窪の会社敷地内にありましたが、相次ぐ工場閉鎖により現在は組合員の連絡に好都合な玉川上水駅付近に設けられています(使用料は全額会社負担)。

リストラ「合理化」とのたたかい

 1993年2月、会社は座間工場での車両生産打ち切りを発表しました。その後、村山からの工機工場の移転、テストコースの移転など、いわば外堀を埋めた後で1999年10月に3工場閉鎖を含む大リストラ計画を発表しました。

 組合は全労連、JMIUの支援のもとで企業の身勝手なリストラ政策から働く者の生活権を守るたたかいを全力で進めました。結果的に工場閉鎖は強行され、数百名の労働者は退職し、工場移転に応じた労働者もいまなお多くは単身赴任などの二重生活を余儀なくされています。私たちのたたかいのなかで「たたかうからこそ人間」という歌が生まれましたが、文字どおり今後も働く者の生活を守るためにたたかっていきます。

           日産リストラ反対集会(1999年12月23日・武蔵村山市)

たたかいのなかでの成果

 上記のように、私たちのたたかいの歴史は大企業職場に資本と独立した労働組合の存在を認めさせ、労働組合の活動上の権利を確保してきたことが特筆されますが、もうひとつの成果は職場労働者の働く権利を守るために組合所属の壁を越えてたたかってきたことです。

労災補償制度の確立

この詩は合併後の増産につぐ増産の中で、季節工として村山工場に働きにきた伊藤和男さんの作品です。
当時、日産には労災補償規程はなく、1967年12月、コンベアにまき込まれ死亡したアルバイトの宮崎栄一さんの遺族には1万円の香典が支払われただけでした。68年10月に夜勤の過労と独身寮内の看護ミスから死亡した久保田英男さんの場合も、会社は「病死」を理由に遺族に冷たい仕打ちをしました。組合は、宮崎・久保田労災裁判を支援し、両遺族に対する補償を勝ちとりました。これが、日産に労災補償規程を制定させる大きな動機となりました。



男女差別定年の撤廃

 合併当時、プリンスの定年制は男女とも55歳でしたが、日産は男性55歳、女性50歳でした。会社は.「吸収された会社の従業員は吸収した会社の労働条件に従うのは当然」と、1969年1月に50歳になった中本ミヨさんを解雇しました。

 中本さんを先頭にして、組合は「1歳の差別は一切の差別に通じる」をスローガンに、運動を広げていきました。
中央区労協や首都圏の労働者の全面的な支援を得て、本社抗議のデモが繰り返される中で、1981年3月に最高裁判所で「定年の男女差別は違法」との判決が下りました。

 このたたかいで、日産の就業規則を、男女とも60歳定年に改正させたこと、差別定年の違法性を確定させ、男女雇用機会均等法にも禁止条項として盛り込ませ、その効力を全国に及ぼしたことなど多くの成果をあげました。



企業ぐるみ選挙

 日産自動車の労使一体となった「企業ぐるみ選挙」は全国規模で展開され、1986年当時、「組織内候補」と称する国会議員3名、都道府県会議員6名、市町会議員49名を擁するひとつの政治団体とも言える勢力になっていました。

 参議院が全国区投票だった当時は、選挙活動は異常なまでに熱気を帯び、日産自動車および関連企業の従業員で組織する「自動車労連」(1988年に「日産労連」と改称)十数万名の労働者に1人あたり20票の票読みを課し、告示数か月前から数百人にもおよぶ「選挙専従」を置いて票固めに動き回っていました。票を出さない労働者に対する圧力も強く「非協力者」のレッテルを張られないように皆必死の思いで票を提出していました。

 私たちの組合は、この「企業ぐるみ選挙」は思想信条の自由を束縛する憲法違反、公職選挙法違反として告発活動を続け、世論にも訴える活動を展開した結果、1986年になって、会社は企業ぐるみ選挙の大幅自粛という異例の通達を出すに至りました。

            「企業ぐるみ選挙」反対の行動

家族手当男女差別勝利解決

 合併当時の日産の家族手当支給規程では、女性が子供の家族手当を受給できるのは「夫が死亡または不具廃疾の場合」という限定がありました。組合はこれを労基法違反として申告し、1972年に「不具廃疾」規定を撤廃させましたが、会社は今度は「世帯主」条項を入れることによって女性への支給を実質上締め出してきました。さらに、女性が「世帯主」として家族手当の支給を申請しても、「世帯主とは住民票上ではなく、実際に生計を支えるものである」として、夫との収入の多寡を支給基準として持ち出してきました。

 組合は4人の女性等の組合員を原告に立て、「世帯主」条項自体の違法性と収入基準を理由として女性への支給をしめだす運用上の違法性を立証してきました。
 一審の不当判決からわずか1年半後の1990年8月、東京高裁において、「世帯主条項の撤廃」、「収入基準の撤廃」、「配偶者の両親および兄弟姉妹への支給範囲の拡大」を盛り込んだ就業規則の改訂と解決金の支払いを骨子とする和解協定を勝ち取りました。




                   重要判決一覧

1.最高裁  「都労委命令違反過料事件」  1974年12月19日判決
  都労委が会社に対して「組合を弱めるような支配介入を行ってはならない」と命令したのに違反し、会社が引き続き組合員に対して行った脱退工作7件につき、川又社長に70万円の過料の支払いを命じた。 
2.最高裁  「組合財産権継承事件」     1980年7月21日判決
 全金プリンス自動車工業支部から脱退した第二組合が支部の財産権継承を主張したのに対し、脱退に至る組合規約違反等により、第一組合に継承権ありとの判決を下した。
3.最高裁  「男女差別定年制事件」     1981年3月24日判決
 男性55歳、女性50歳の差別定年制により、1969年1月に中本ミヨさんを解雇した事件に対し、差別定年制は公序良俗に反し無効との判決を下した。
4.最高裁  「残業差別事件行政訴訟」    1985年4月23日判決
 組合員の収入ダウンを狙って行われた残業締め出しに対し、都労委が不当労働行為と認定したところ、会社が都労委を訴えて裁判を起こしたが、会社が敗訴した。
5.最高裁「組合事務所・掲示板貸与拒否事件行政訴訟」 1987年5月8日判決
 組合事務所・掲示板を全く貸与せず、都労委が不当労働行為と認定したところ、会社が都労委を訴えて裁判を起こしたが、組合併存下での中立保持義務を理由として、会社が敗訴した。